マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
一緒に福音書を通読してみましょう!

通読の目次はこちらから。
自分のペースでお読みいただければ幸いです。

ちょこっと解説

山上の説教の締めくくりの7章では、当時の人々が持っていた旧約聖書の律法に基づく凝り固まった「義しさ」が逆に人々の間で罪を引き起こしていることを、具体的な例を出しながら教え、神様が求める元の形に戻そうとしていきます。
5章に響きあうように、律法に文字通り正しいかどうかという一見分かりやすい基準を用いて、自らを神のようにし、隣人の罪を糾弾するということが横行していたのでしょう。それは決して律法学者だけではなかったはずです。

日本の外国人に対する寛容さが突然否定と排除に移り変わるそのラインは、「日本の文化とルールを守っている限り」という条件にあるように思います。
日本で守られてきた暗黙のルールに従うなら誰であれ受け入れ、少しでもそれを乱すなら排除する。それは、日本人自体が規律正しく生きているのではなく、相互監視の「恥の文化」が根強いからでしょう。
多くの人々が「正しい」とすることが正しさを持ち、それにそぐわない者は「恥」とされる──その正しさは確固たることに根付いているのではなく、あくまで移り変わる「雰囲気」のような相互監視のもとにあるように思います。
その「雰囲気」によって、そこから外れた者を排除し叩きのめすことを「正しい」こととしてしまう、その有り様は、イエスが当時の裁きあう人々の間に見ていたものに近いかもしれません。
だからこそイエスはそのような相互監視と裁きあいから人々を解放し、正しさと裁きと再び神様に帰そうとされるのです。

私たちに悔い改めを求め(1節~5節)、神様が私たちのために最も必要な「良いもの」を与えてくださることをおぼえながら、私たちを隣人のもとへと、裁くためではなく良いものを与える者として遣わそうとされます(7節~12節)。
そして、その善なる行いは形だけの物であってはならないということを忠告した上で、神様はその目に見えない心の内まですべてお見通しであることを忠告するのです(13節~23節)。
それはまさに、この山上の説教の始まりに「幸いである」と語り始められている言葉に響きあいます。
私たちは神様によってどのようなときにも「幸い」とされているのであるからです。
だからこそ隣人から与えられる承認や賞賛を求めて目に見える行為に励むのではなく、幸いな者とされている満足のもとで、その信仰と謙虚さに裏打ちされた関わりをもって「良い実」を──洗礼者ヨハネが語った「悔い改めにふさわしい実(マタイ3:8)」を実らせていくようにと勧めているのです。