マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

イエスは山上の説教を終えると山を降り、沢山の人々の病を奇跡によって癒やしていきます。
そこで語られていくのが、ユダヤ人たちにとっては敵国であるローマの兵隊、百人隊長とのやりとりです。
彼はユダヤ人ではありません。ユダヤ人でない人々は聖書を知らず、律法を守らない異邦人として見られ、ユダヤ人からは嫌悪、差別の対象でした。
ましてや、敵国の相手という立場であればなおさら、ユダヤ人にへりくだる理由はありません。
しかし百人隊長は中風に苦しむ部下のためにイエスに癒やしを願うのです。
そしてその言葉からは、自らが「権威ある言葉(による命令)」に力があり、それに従っているように、イエスを「権威者」として認め、「ひと言おっしゃってください」とイエスの言葉の力により頼んでいることがわかります。
こうした振る舞いに対し、イエスも「感心し」、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と褒めています。
古くから聖書を受け継ぎ、その律法を守って生きている(と当人たちは思っている)ユダヤ人を差し置いて、異邦人である百人隊長をこのように評したことから、イエスが分け隔てなく人を見、そのうちにある「神への信仰」に目を向けていたことが表されています。
また、異邦人に対する伝道に消極的にも見られる文言もある(10:5-6)マタイ福音書の中でも、貴重な異邦人を宣教(救いの)対象としていることがわかるイエスの姿と言えるでしょう。

また、このような百人隊長の信仰と対比されるように、イエスのもとへとやってきた人々の不信仰・無理解が、のちのガダラ人たちの対応や、イエスの弟子たちや弟子になろうとした人々とのやり取りの中で強調されています。
イエスの弟子になりたいとやってきた人々に対して、イエスは厳しく対応しています。
21-22節を読むと、「イエスの弟子になるということは自分の親の葬儀さえ出られないということだろうか」と聞こえます。
しかしイエスは「わたしに従いなさい」と命じられるのです。これは21節の弟子の「まず」という言葉に対応した応答であって、葬儀に行くな、と言っているわけではないのです。
イエスに従って生きるということは、キリスト教を信じるがゆえにやらなければならないつとめを放棄するということではないからです。
愛を持って隣人に関わることを教える一方で家族に不義理をすることをイエスが赦すはずがありません。
つまり、これは優先順位の話なのです。
イエスの弟子として福音を告げることが弟子の役目であり、葬りそのものに付随する多忙な準備に追われて、何のために弔うのかという本質を見失うくらいなら、それは他の者に任せなさい、と勧めているのです。

ここでイエスはイエスの弟子たる者として生きる事、人が人に対して信頼し、委ね、心を配り、良い関係を回復するために何が一番大事であるのかを示そうとしておられます。
それはまず自分の価値基準において神様を第一に置くということであり、ガダラで悪霊に取りつかれた人を癒したように、病や人間関係の断絶の中にいる人々への無関心を取り除くことです──たとえそれが目先の利益にばかりに目を向けるような人々には歓迎されないことだとしても。