マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
一緒に福音書を通読してみましょう!
通読の目次はこちらから。
自分のペースでお読みいただければ幸いです。
ちょこっと解説
9章になると、特にユダヤ人の中でもファリサイ派の人々とその他の人々とのイエスの対応の差が顕著に表れてきます。
ファリサイ派の人々は初め、律法違反を咎めるような文脈でイエスに指摘をします(3節)。
徴税人マタイを弟子とする際には不浄規定や断食規定を理由としています。ただし、この断食規定は聖書に記された律法というよりも、律法を厳密に守るために後代の律法学者たちが自ら定めていった「昔の人の言い伝え(15章)」であり、人間が作り出した慣習を根拠にしています。
ついには「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している(34節)」という的外れな論理でイエスを貶めようとするのです。
そのような物言いから、彼らの心には律法に対する正しさはなく、自分たちの正しさにそぐわない者を排除したい、という欲から出た言葉であったことが明らかにされているのです。
そのような中でイエスは淡々と、神様の御心を顕すために働かれます。
罪を赦し、病をいやし、人々に憐れみを向け、共に食事を囲みます。
当時、誰かと共に食事をするという行為自体が「わたしはこの人の仲間ですよ」ということをアピールする手段として用いられていました。
ですから多くは権力や地位のある人々と一緒に食事をすることで、自らの地位を引き上げようとする手段として知られていたわけです。
イエスはそれを逆手に取り、多くの人々から嫌われ、孤独と差別に苦しむ人々を救うために用いられたのです。
「あなたは神に見捨てられてはいない」「わたしはあなたの友でありたい」というメッセージを込めて分かち合われる食事は、彼らの体の糧としてだけでなく、心をも満たしたことでしょう。
ついにイエスは死した娘さえもよみがえらせる力を人々に顕します。
それは、神様は失われたいのちさえも再びお与えになる力をお持ちであるということを人々に知らせるためでした。
指導者の家の周りで「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」は、当時死した人々を慰め、死者がいることを知らせるために、悲しんでみせたり同情することを仕事としていた人々のことを指しています。
形だけの悲しみや同情は余計な悲しみを増幅させるだけであり、彼らは本当に悲しんでいたのではないことが、少女をよみがえらせに来たイエスを「あざ笑った」ことからもわかります。
誰もが信じられないと思うような時に、神様はそこにおられます。
大きく喧伝され、人々の自分勝手な振る舞いに利用されるための権力や地位。その振る舞いの裏側で存在を無視され、取り除かれ、暗闇へと追いやられている人々。死の悲しみを形だけ同情し、神の救いと憐れみなどないとあざわらう罪なる振る舞い。
目を背けたくなるほどのこの世の有り様の中で、イエスは静かな、一対一のかかわりを持たれます。そして乱れ狂う世界の中で死にかけている私たちの手を取り、起き上がらせてくださるのです。