マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説

イエスは天の国についてのたとえを語り始められます。
この天の国という言葉を聞くと、この世界とは別の場所にある別世界としての、いわゆる「天国」をイメージされるかもしれませんが、聖書が捉えている天の国とは、原典のギリシャ語の意味としては「神様のご支配が行き届いている領域」のことを指しています。
ここでいう「神様の支配」というのは、イエスの言う神様の御心に適た関わり方、つまり12章で言われていた「神様が望まれる愛と憐れみ」による”関係性”を指しています。
ですからこの世においてもそのような関係性のうちに天の国は垣間見ることができる、と言えるのです。

だからこそ天の国においても「毒麦(24節以下)」のような存在が登場し、最終的(終末時)にはそれが神様によって取り除かれる、という話がたとえとして語られるのです。
毒麦のたとえだけを抜き出して読んでみると、自分は毒麦なのか、それとも良い種から育った麦であるのかと呼んでしまう人もいるかもしれません。
しかし実は私たち自身のたとえとされているのは麦自身ではなく、種がまかれた「土地/畑」であることがわかるように、まず「種をまく人」のたとえをイエスは語られたのです。
このように、イエスが語られた順番にも意味があります。

イエスが説明している通り、種とはイエスのみ言葉を指しています。そしてそれが撒かれた私たちの心の状況によって、その言葉が私たちの中で実を結び、「実を結ぶ」、つまり天の国における関係性に生きられるようになるかが変わる、ということを言うのです。
私たちの心には罪と言う毒麦も、良心と言う良い麦も撒かれています。そして私たちの周りの状況にも簡単に左右され、いつもよく実るかどうか限らないのです。
誰しも周りの人々との関係性を良く保ちたいと願っていても、それがかなわないのは、自分の努力だけではどうしようもできない、「艱難(理不尽な状況)」「世の思い煩いや富の誘惑」が一人一人を打ちのめしているからです。
だからこそイエスは、実を付ける倍数を、人の努力でどうにかなる三十倍の実り、周りの状況などの様々なタイミングが重なった時に起こる豊作としての六十倍と表現します。
それだけでなく、人の努力やタイミングではどうしようもならない「百倍」もの実りについて最初に言及しているところに、最も深いメッセージが隠されています。
つまり、私たちの努力の外側で神様が働かれることで、私たち一人一人の「関係性」が私たちの予想を超えた方向へと向かうことがある、ということです。

そのような出来事に会った時、それをただの「偶然」「ラッキー」と捉えるのか、それとも「神様が働いてくださったんだな」と感謝するのかは、一人一人の自由意思に委ねられています。
神様はそれを私たちに強制しておられるのではありません。
ただ、そのような小さな感謝の心と神様とのつながりがあなたの中に芽吹いたとき、それは「からし種」や「パン種」のたとえように、天の国は広がっていくことをイエスは伝えようとしたのです。
つまり、その小さな信仰は、あなたの考え方や物事の捉え方を変えるだけではありません。
周りの人々への関わりが変わり、あなたの周りの環境を変化させ、そしてあなた自身の人生そのものが変わっていくことにつながっていくのです。