マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
19章の最後に語られた「先の者が後になり、後の者が先になる」という逆転について、イエスは「ぶどう園の労働者」のたとえで加えて説明しています。
主人によって雇われた人々はその働いた時間に関わらず同じ賃金を払います。
もし、夜明けから一日中働いた人々から賃金を支払われていたら、彼らは夕方にやってきた人々の賃金は自分たちよりも少ないと決めつけたまま去っていたでしょう。
しかし敢えてここで主人が「短く働いた者」から支払っているのは、主人にしか見えていない部分にも支払っているからです。それはつまり、彼らが「働いていない間に抱えていた不安」にも主人は目を向けている、ということです。
日雇いの労働者はその日の仕事がなければその日の食事にもありつけることが難しい人々がほとんどでした。
だからこそ、「働かざる者食うべからず」が非情な現実としてあったのです。それは、働きたくても働けない者まで「怠けている」と蔑み見捨てていくような、隣人への無関心と愛の欠如でした。
だからこそイエスは、人々が目を向けていない一人ひとりの心のうちまで神様は見通して報いてくださる、ということをここで伝えます。
そうすることによって、自分の利益、自分の報酬、自分の対価を自分の行為によって引き出そうとする弟子たちの信仰を悔い改めさせようとしているのです。
しかし、イエスと弟子たちとの認識のズレは、どんどん広がっていっていることがわかります。
三度目の十字架の予告において、前回は悲しんでいた弟子たちの反応が今回では一切描写されません。
もはや弟子たちがイエスから心を離し、さらなる無理解のなかにあったことを示しています。
そしてその無理解がさらに強調されているのが、「ヤコブとヨハネの母」からの申し出でした。
イエスが死んだ後の生活が保証されるのか、それにふさわしい立場を残してくれるのかという的外れな要求によって、イエスが教えていることが全く伝わっていないことが繰り返し描写されていきます。また、そのような抜け駆けをした、と他の弟子たちが怒っていることからも、例外的な弟子はいなかったことが表されています。
ここでイエスが受ける王座とは「すべての人に仕えるしもべ」としての王の立場であり、そのために受ける洗礼とは「十字架の死の苦しみ」であったのです。
このように、この世の権威と地位への執着から逃れられない弟子たちと対照的に、そのすべてを失った二人の盲人が描かれていくのです。
彼らは神様の憐れみと救いだけをただ願います。
目が見えるようになった後、彼らは金儲けのための仕事を再開したり、地位を築き上げるために有力者との食事会に奔走したりしません。「イエスに従った」のです(34節)。
それはまさに「皆に仕える者、皆のしもべ」となるイエスに従っていく真の信仰の在り方を強調し、この世の欲から離れられない弟子たちの的外れな信仰とが、対照的に映るように挿入された出来事でもあるのです。