マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
一緒に福音書を通読してみましょう!
通読の目次はこちらから。
自分のペースでお読みいただければ幸いです。
ちょこっと解説
さすがのイエスも、これだけ旧約聖書聖書の記述に基づいて語り、悔い改めへの告知をしてなおイエスの言葉を受け入れないどころか罠にかけようとするファリサイ派の人々を、厳しく非難しています。
その内容はこれまで言ってきたことをあらためてまとめ直したものでもあります。
これだけユダヤの教師たちだけを狙い撃って長々と非難をしているのは、ここまでイエスに対する無理解と、そしてその後に起こっていく無実の十字架刑へと追いやっていく残忍さ、傲慢さを、このマタイ福音書の筆者が知っているからです。
だからこそ、山上の説教でも触れたようにイエスの呼びかけを神からの呼びかけとして語り、神の言葉を聞くために選び出されたユダヤ人──「神に祈り格闘する者イスラエル 」の民であるならば、今こそ悔い改めるべきだという最終通告をここでイエスに語らせていくのです。
ファリサイ派や律法学者たちのすべてが悪かったということではありません。
「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。(15・18)」と言われていたとおり、ここで改めて「盃の内側と外側(26節)」にたとえ、彼らの教えと、彼ら自身の振る舞いをイエスは切り分けて断じています。
律法の教えそのものは正しく、それを守るようにと勧めつつ、人がその教えを誤解し、自分の利益のために利用していることこそが罪深いことなのだと指摘していくのです。
そして、その罪は旧約聖書における最初の殺人事件、アベルの時代から累々と積み重ねられてきたものであり、それを悔い改めて神様に赦されないなら、それだけの報いを受けることを覚悟しなければならないとイエスは告げます。
これは、神様からの罰ではなく、むしろ自分たちの振る舞いによって自ら引き寄せてしまった滅びであるのです。
キリスト教は「信じれば誰でも救われる」宗教ですが、逆に「信じなければ救ってくれないのか」と言われることがあります。
それは違うのです。前章の婚宴のたとえにもあったように、救われたいのなら、神様が差し出している救いを受け取るための信仰が必要なのです。
自ら信じることを拒む者を、神様は洗脳して心を変えてまで救おうとはなさいません。
その力があってもそうされないのは、悪人でさえ愛しておられるからです。
それは、たとえ間違った道に進もうとしていても、その選択をした自由意志を奪わない、ということと同義です。
親だからといって、子の自由意志を奪い、人形のように人生をコントロールしてしまうのは愛ではないように、神様もまた、信じることを拒む者を救うことは出来ないのです。
また、信じずして得ることが出来ないものを、信じることなく得ようとするのは一方的な強奪であり、まさにそれこそ「礼服を着ていなかった者」、ファリサイ派の人々がやっていたことと同じことになります。
神様は私たちにとって、救いの自動販売機ではありません。祈りや信仰という名の硬貨を入れれば、自分の好きなものをガコンと出してくれるわけではないのです。
ここに、天の国が「関係性」であるということが響いています。
神様も私たちと同じ人格的な存在であり、神様が私たちへ最大限の愛と尊重を持って関わろうとしておられるように、私たちもその愛に立とう、その思いを受け取ろうという心から、信仰と救いとが始まるのです。