マタイ福音書、全28章を読むために役立つ解説を、一日一章、毎日更新しています。
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ちょこっと解説
イエスの再度の受難予告によって、十字架の出来事が始まります。
過越祭というのは旧約聖書の出エジプト記の物語の時代に定められたユダヤ人にとって最も大きなお祭りです。
ユダヤ人たちがエジプトで奴隷となっていた頃、神はモーセをエジプト脱出のリーダーとして遣わし、ユダヤ人たちをエジプトから神が約束された地であるカナン(現在のパレスチナ)の地へと導きだす、という出来事があります。
その脱出を記念し、神によって救い出された民であることを後代に伝える「過ぎ越しの食事」を毎年お祭りとして定めたのが、過越祭です。
この「過ぎ越し」とは、ユダヤ人を手放そうとしないエジプト王ファラオに対し、神様は下っていってエジプト中の初子(長男)の魂を奪うという災いを起こすのですが、モーセを通して神様のお告げを聞いていたユダヤ人たちは、言われた通りに家の鴨居に子羊の血を塗ることで、裁きの神様が「過ぎ越し(通り過ぎ)」てくださった、ということからきています。
そのような解放の喜びに満ちた祭りの時の始まりに「過ぎ越しの食事」を行い、それから一週間かけて「除酵祭」が行われます。
それら全体が「過越の祝い」として行われていくのですが、イエスはそのような祝いの時、人々が神様によって解放させられた救いを思い起こす時の始まりに、裏切られ、逮捕され、一方的な裁判によって死刑とされていくのです。
ここに、人々の罪が表出する一方で、それでも人を救おうとされる神様の計画が、旧約聖書の出エジプトの物語と重ねられながら進んでいくのです。
ここで、ふたりの裏切り者について福音書は書き記しています。
一人はイエスを祭司長たちに売り渡したイスカリオテのユダ、そしてイエスの弟子であることを否認したシモン・ペトロです。
イエスは弟子たちが自分を裏切ることを知っていました。それを過越の食事の中で言及されます。
ここでユダがイエスを裏切ることに対して、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった(24節)」とまで言われていることから、ユダがイエスを売り飛ばしたという罪は、その命では償いようがないほど深かった、と捉えられやすいかもしれません。
しかしよく読むと、イエスはユダに「あなたが裏切ったから私は十字架にかかって死ぬのだ」とは言っていないのです。「聖書に書いてあるあるとおりに、去っていく(24節)」、と言うのです。
さらに、ゲツセマネの園でイエスを捕まえに来た人々と共にいたユダに対しても、イエスは「友よ」と呼びかけています。
このことから、イエスはユダを「この世に存在するべきではない極悪人」と見ていたのではないことがわかります。
「今後何千年も、『神を裏切り、十字架に追いやった罪深い弟子』と罵られる」苦しさを抱えるなら、いっそ生まれてこないほうが彼にとって幸せであったかもしれないと、イエスは裏切り者のユダにさえ深い寄り添いをもって、言葉をかけておられたと解することもできるでしょう。
イエスは逮捕される前、ゲツセマネの園というところで必死に祈ります。
弟子たちは「目を覚ましていなさい」と言われながらも眠ってしまいます。
それは、苦しむ人を前にしてなお自分のことを優先してしまう人間の弱さを表しています。
しかしイエスは、それでもそばにいてほしい、と弟子たちに求めておられたのです。それは、人として生きたイエスという側面が垣間見られるシーンでもあります。
人間イエスは、ご自分が十字架にかかることでどのような救いがもたらされるのかという神の計画を、きっと知っていたはずです。
それでも二つ返事でその苦しみを引き受けてはいません。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39節)」とあるように、できることなら死にたくなかったし、痛めつけられ、侮辱され、すべての人から見捨てられるという立場になどなりたくなかったのです。
それでもイエスは「私の願いどおりでなく、御心のままに」と続けて祈ります。
神の子であろうとも、自分の思い通りにこの世界を動かすことはしてはならないことをよくわかっていました。それこそが人の罪であり、その罪をすべて背負っていくために、彼はこの世に来られたからでした。
いやだけど、しなければならない。私たちの眼の前にも、そのようなものばかりが溢れています。その素直な気持ちを、イエスはまっすぐ神様に打ち明けたのでした。そうしてイエスは、たとえ自分の思い通りに杯が取り去られなくとも、「立て、行こう、、、 。(46節)」という能動的な表現へと言葉を変えて、現実へと立ち向かっていくのです。
弟子ペトロは、逮捕されて引かれていくイエスについて行くことが出来ませんでした。
二人の道が分かたれてしまった中庭で、彼は試練を受けるのです。「あなたはイエスの仲間でしょう」と言われ、彼は三度も、自分の保身のために否定し、イエスを裏切ってしまうのです。
最後の晩餐のときには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません(35節)」と言った同じ口で、「呪いの言葉さえ口にしながら(74節)」。
ユダとペトロとの大きな違いは、ペトロがこの裏切りを後悔し、それでも自分で自分を裁くことはなかった、ということです。
ユダもまた裏切りによって手に入れた銀貨三十枚を返金し、イエスを釈放してもらおうと願いますが(27・4)、受け入れられず、自死を選んでいきます。
つまり彼は自分の罪を自分でさばいてしまったのです。
あれだけイエスが、裏切り者だとわかっていてなお「友よ」と呼びかけてくださった言葉を彼は思い出すことがなかったかのように、「決してゆるしてはもらえない」と自分で決めつけてしまったのです。
取り返しのつかない過ちを犯してしまうことは、誰にでもあります。それが自分の些細な行動から、思いもよらない結果として引き起こされることも。
それでもそこで、私たちが隣人に誠実に謝罪をし、償おうとすることなしには、ゆるしへの道は本来開かれないのです。
そのことをよくわかっていたからこそ、神様はそのゆるしを、悔い改める前のすべての人々に先んじて示してくださったのです。
それは、誰一人、ユダのように自分で自分を裁くことなく、悔い改めへと向かっていけるようにするためでした。
そしてその愛は、あの最後の晩餐のときから、イエスを裏切ったすべての弟子たちをはじめとして──この世界のすべての人に差し出されているのです。