一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し…… ──エフェソの信徒への手紙 4:2
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小国士朗さんという方をご存じでしょうか。
当時テレビ局のディレクターだった小国さんは、認知症のある方々が暮らすグループホームを訪れ、間違いをおおらかに受け入れ合う人々の姿に心を動かされました。
そこから生まれたのが、「注文をまちがえる料理店」というイベントです。
2017年に開かれたこの料理店では、ホールで注文を取り、料理を運ぶスタッフが全員、認知症のある方々でした。
ですから、ときどき注文を間違えてしまうのです。
実際、注文した通りの料理が届かなかったお客さんが、少なからずいたと伝えられています。飲食店としては、大きな失敗でしょう。
ところがお客さんは、それを承知で来ています。「あれ、違う」と驚いたあとに大笑いして、満足して帰っていくというのです。
もし私たちが、頼んだものと違う料理を出されたら、どう感じるでしょうか。
料理を取り替えてもらえるように店員に料理を下げさせ、余計な時間を待たされたとイライラするかもしれません。
けれども、間違いを前提にして、それを一緒に笑えるなら、同じ出来事がまったく違う時間になるのだと思います。
今日お読みした聖書の言葉は弟子パウロの名で、エフェソの教会の人々に宛てて書かれた手紙の一節です。
この教会には、ユダヤ人と異邦人という、育ちも習慣も異なる人たちが集まっていました。
パウロは、彼らに対して「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐しなさい」と勧めます。
相手に対して忍耐する。それは大事なことですが、実行に移すのは難しいことです。
私たちは人生のどの場面でも、自分が好きな人とだけ付き合って生きていくことはできません。
そういう時、私たちはよく、「この人さえいなければいいのに」と思うことでしょう。
しかし、そのように相手をみていると、自分まで嫌な気持ちになり、傷つくばかりなのです。
聖書はすべての人が神様の前に罪人です、と教えます。それは、私たちの誰も、神様の前に立たされれば誇ることのできない存在であるからです。
誰だって間違うし、悪魔にそそのかされるように誰だって良くないことを一度は考えます。誰かを遠ざけ、排除し、あるいは傷つけ、見捨てることもあるのです。
しかもそれは必ずしも悪意を持ってではありません。
自分のことで精一杯だったり、何かもっともらしい理由をつけて、それを正当化するのです。
それは、私たちが神様の心から的外れになってしまう罪を抱えているからなのです。
イエス・キリストは、そのような私たちの罪を、十字架において代わりに償ってくださいました。
それは、私たちが皆罪人であるということを心に留めて、お互いにゆるしあい、相手が間違っても笑いあえるような関係へと進んでいけるようにするためだったのです。
神様の前に私たちは生きている、という視点に立つと、私たちは等しく「お互い様」と言えるような存在です。
そのような心に立つとき、私たちの目の前にはきっと、これまで見えてこなかった自分本位な罪なる世界から、お互いに愛と赦し、感謝と支え合いに満ちた別の世界が見えてくるはずです。
誰しも、自分とは合わないのに、付き合わざるを得ない人が、一人や二人は思い浮かぶのではないでしょうか。
もし思い浮かぶなら、その人の顔を思い浮かべながら、今日の箇所を改めて読んでみましょう。
そして今週、その人に向ける態度を、ほんの少しだけでも変えてみてほしいと思います。